2010年9月5日日曜日

Explication - 解明

Wikipedia, Explication

The idea and practice of explication is rooted in the verb to explicate, which concerns the process of "unfolding" and of "making clear" the meaning of things, so as to make the implicit explicit. The expression "explication" is used in both analytic philosophy and literary theory.

...

analytic philosophy
analytical philosophy
school of philosophy emphasizing language: a 20th-century philosophy primarily concerned with resolving philosophical problems through the analysis and clarification of language
---

Carnap's notion of explication
Carnap, R. (1950). Logical foundations of probability, University of Chicago Press, Illinois.

[Summary]
Explication can be regarded as a scientific process which transforms and replaces "an inexact prescientific concept" (which Carnap calls the explicandum), with a "new exact concept" (which he calls the explicatum). An extended document, like an essay or thesis which describes and explains the new explicit knowledge, is usually called an "Explication". But an explication may also be contained and expressed in shorter formats, such as in paragraphs and sentences, which are deliberately drafted to emphasise the nature and impact of new explicit knowledge which draws on, and are improvements upon, previous knowledge.

---

「心の哲学」

「心の哲学」要約

Wikipedia、クオリア
クオリア(英:複数形 Qualia、単数形 Quale クワーレ)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと[2]、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう[3]。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。

「心の哲学」5.1 Wikipedia、クオリア
多くの心的状態が、異なる個人によって異なった方法で主観的に経験されるという性質を持っている。[20] たとえば痛いということが、痛みという心的状態の性質である。さらにいえば、あなたの痛みの感覚は、私の痛みの感覚と、同じではないかもしれない。なぜなら我々は、どれほど痛いのかを測ったり、どんな風に痛いと感じるのかを表したりする方法を欠いているからである。哲学者や科学者たちは、これらの経験がどこから来るのだろうかと尋ねる。神経的ないし機能的状態がこうした痛みの経験と同伴し得ることを示すものは何もない。しばしばポイントは次のように定式化される。脳の出来事の存在は、それだけでは、なぜこれらと対応する質的経験と同伴するのか説明することができない。なぜ多くの脳の過程が意識の経験的側面をともなって生じるのかという難問は,説明することができないように思われる。[19]

しかし科学が最終的にはこうした経験を説明するにちがいないと多くの人は思っているようである。[33] このことは還元的説明の論理から来ている。もし私がある現象(たとえば水)を還元的に説明しようとすれば、私はこの現象が持っているすべての性質(たとえば流動性や 透明性)について,何故そうした性質を持っているのか説明しなければならないだろう。[33] 心的状態の場合、このことは次のことを意味する:心的状態が経験された性質をもつのはどうしてかを説明する必要があるということである。

内省的な、第一の人の心的状態のある面や意識一般を、第三者の量的な神経科学の言葉で説明するという問題は、[ 説明のギャップ ]と呼ばれる。[47]

このギャップの本質については、現在の心の哲学者の間でも、いくつかの異なった見方が存在する。

デイヴィッド・チャーマーズや初期のフランク・ジャクソンらは、このギャップを実際は、存在論的なギャップ であるとみなす。つまり彼らはクオリアが科学によって説明できないのは、物理主義が間違っているからだ と主張する。絡まり合った二つのカテゴリーが存在するのだが、ひとつは他方に還元することはできないのである。[48]

これとは違った見方は、トマス・ネーゲルやコリン・マッギンのような哲学者がとる見方である。

ネーゲルはいう。このギャップは実際は認識論的なギャップである。科学は未だ主観的経験を説明することができないが、その理由は科学が求められているレベルのあるいは種類の知識に未だ到達していないからである。我々は問題を首尾一貫した形で定式化することさえできていない。[20]

一方マッギンは次のようにいう。問題は、永続的で固有の生物学的限界の一つである。我々は説明のギャップを解決することができない。なぜなら量子物理学が象にとっては認知的に閉じているのと同様に、主観的経験の領域は我々にとって認知的に閉じているからだ。[49]

[ 2種類の経験、即ち、主観的経験と客観的経験がある。主観的経験は文学の対象で、客観的経験は科学の対象である。但し、廣松 渉の「主-客」図式謬見説に注意の事 ]

また別の哲学者たちは、このギャップを単に意味論的問題[?]として片付けている。

「心の哲学」要約
20世紀にかけて最も一般的だったのは、物理主義である。物理主義には、行動主義、タイプ同一説、非法則一元論、機能主義などが含まれる[11]。

物理主義(Physicalism)。
物理学の理論が記述するもののみが存在しているという考えで、物理学が発展していけば、心についても全て物理学の用語だけで説明できると考える。

「物理主義はいまの段階では、心的状態は物理的状態にほかならないと主張するだけで、いかにしてそうであるのかを説明出来ない。J.レヴァインが1980年代の初めに用いた言葉を使えば、物理主義には「説明ギャップ」があるのである」( 「心の哲学」 Ⅰ 勁草書房、信原幸弘、pp.20-21, 2004 )

---

The explicandum extended
物理主義へのP.M.チャーチランドの反論
「P.M. チャーチランドは、経験がある(或る)クオリアをもつことと脳がある(或る)状態にあることはひとつの同じ事実であり、ただ知られ方が異なるだけだと主張した」

P.M.チャーチランド説の解説(信原幸弘)
「クオリアに関する事実と脳状態に関する事実も知られ方が異なるだけで同じ事実だというわけである」(「心の哲学」 Ⅰ 勁草書房 pp.20-21, 2004 )

(1) 経験Eは或るクオリアQであり、かつ、或る脳状態Bである。
(2) A氏の経験EはクオリテアQとして( as )A氏に覚知され、又、脳状態Bとして脳科学者S氏に覚知され得る。
(3) A氏の経験的事実Eは、A氏のクオリアに関する事実QとしてA氏に知られ、又、A氏の経験的事実Eは、A氏の脳状態に関する事実Bとして脳科学者S氏に知られ得る。

[ 世界現相は、森羅万象、悉(ことごと)く「意味」を"帯び"た相で現前する。各々の現相は、その都度すでに、単なる「所与」以上の「或るもの」として覚知される。(廣松 渉著 「存在と意味」 第一巻 1982年刊 岩波書店 緒論冒頭 ) ]

世界現相:A氏の経験的事実E、「意味」を"帯び"た相=「或るもの」:A氏のクオリアに関する事実Q、「所与」:A氏の脳状態に関する事実B

The explicatum extended
(4) 現相( A氏の経験的事実E )は、単なる「所与」( A氏の脳状態に関する事実B )以上の「或るもの」( A氏のクオリアに関する事実Q )として覚知される。
(5) A氏の経験的事実Eは、A氏の脳状態に関する事実B以上のA氏のクオリアに関する事実Qとして、A氏に、覚知される。

何故、「「意味」を"帯び"た相」」で、覚知されるのか?これが心の特性である。"as" property of mind.


11:21 2010/09/05

0 件のコメント:

コメントを投稿