2010年8月30日月曜日

人間

Wikipedia、人間

この項目では、人間の社会性・人格について説明しています。

法律上の人間については「人 (法律)」をご覧ください。
生物学における人間については「ヒト」をご覧ください。
その他の用法については「人間 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

人間は、[ 社会的なありかた、関係性、人格 ]を中心にとらえた「ひと」あるいは「人」のことである。また、その[ 存在 ]のありかた全体を指すこともある。

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光( light )は個( photon )であり、かつ、電磁場( electromagnetic field )である。同様に、
人( person )は個( individual )であり、かつ、人間「 関係態 」( relational existence,
being or field )である。

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[ 歴史的には、電磁場が19世紀に発見され、20世紀になって光子仮説が提唱された。 ]
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しかし、光がphotonでもelectromagnetic fieldでもない「或るもの」であるのと同様に、
人はindividualでもrelational existenceでもない「或るもの」である。

つまり、それは、個として、あるいは、電磁場や関係態として現れ得る「或る存在」である。

人は他者との繋がりがない状況、即ち、社会外、では個と成り、他者と繋がった状況、即ち、社会内、では関係態と成る。17:00 2010/08/31

人が個である場合、独自性を維持し易い。例:思索
人が関係態である場合、独自性から離れ、他者の影響下で、変容し易くなる。例:議論
17:11 2010/08/31

個人的経験によれば、個と関係態の往復が、研究には、有用である。17:20 2010/08/31

問題
個と関係態の中間的状態とは何か? 17:25 2010/08/31
読書に向いた状態か? 17:28 2010/08/31
名言:「読書とは著者の頭で考える事」17:35 2010/08/31
思索と議論の中間状態 

時間

Agentの固有時間について:
「個の固有時間」と「関係態の固有時間」

Agentが個の場合、Agentの固有時間は、個の固有時間である。
Agentが或る関係態にある場合には、Agentの固有時間は、その関係態の固有時間である。

「個の固有時間」は物象化された時間

18:47 2010/08/30

15:55 2010/08/30

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目次
1 概説
2 人間観の遷移
2.1 旧約聖書
2.2 古代ギリシャ
2.3 キリスト教
2.4 中世~近世
2.5 現代
3 教育と人間
4 性質
5 歴史
6 生活
7 人間の特徴と人間論
7.1 人間と遊び
8 人間の線引き
8.1 人同士の差別
8.2 様々な基準と概念的な戯れ
9 関連語
10 脚注
11 関連項目

概説
関係性に着目するために「人 - 間(あいだ)」という名称があてられたとされている。人間は「社会にあるひと」を指す言葉である。また「人間」と書いて「世の中」「世間」という意味にもなる[1]。この場合「じんかん」とも読み明治期までは「人間(じんかん)に交わる」といった表現もよく使われた。人間の社会に属さないヒトは一般に野人とも呼ばれ、人間の範疇の外にあると考えられる[2]。

アリストテレスは人間を指して「社会的動物」と呼んだ。人間については、古くから哲学者らによって考察されていた。

人間観の遷移

旧約聖書
旧約聖書では、すべては神というフィルターを通して語られているが、そこでは同時に人間観や世界観が語られている。殺人、不倫、近親相姦、大量殺人、権力抗争といった(聖なる書物とは思えないような)人間の赤裸々な姿が描かれており、それらの描写やドラマは、数々の芸術作品のモチーフともなってきた歴史がある[3]。



システィーナ礼拝堂の天井画「アダムの創造」
創世記には以下のような記述がある。

「我々にかたどり、我々に似せて、人をつくろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うもの全てを支配させよう」神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記 I章26-27)
旧約聖書以前の時代、古代エジプトやバビロニアにおいては、あくまで王だけが神にかたどってつくられた、とされていて、人間全体がそうだとはされていなかった。それが創世記においては、人間はすべて神にかたどってつくられた、されたのである。つまり、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、という人間観が述べられているのである[4]。また、ここでは人間が自然や動物の支配者とされている。自然や動物を支配したり管理したりしようとする西洋的自然観(人間観)は、この創世記の記述の影響を受けている[5]、とも言われる。

古代ギリシャ
ソクラテス、プラトン、アリストテレスらによって構築された人間観は、人間の普遍的特質に関心を集中させている[6]。

キリスト教
キリスト教では、すでに説明した、旧約聖書の創世記で示された「神の似姿」という考え方が継承された。キリスト教に基づく倫理観では、一番大切なのは(日本人の多くが考えているような「他人の眼」ではなく)神の眼、神の視点である[7]。さらに、4~5世紀の神学者アウグスティヌスによって原罪の思想が始められたともされ、これはその後西方教会においては重要な思想となった[8]。キリスト教では、イエス・キリストを媒介として、あらゆる人間の同等の価値と各個人の不可侵性が強調された。中世ヨーロッパにおいては、人間が宇宙の中心的存在であるという人間像が席巻した[9]。

中世~近世
1400年代~1500年代の頃になり、ガリレイ・ケプラー・ニュートンらの活動によって新たな世界像が提示されるようになると、人間が宇宙の中心であるという図式が揺らぎはじめた。また、デカルトによって人間の身体までも、化学的、物理的組織だとする視点が広く流布されるようになった[10]。

1700年代になると、ラ・メトリがデカルトの概念を継承し「人間機械論」を発表。1800年代にはダーウィンが自然選択に基づく進化論を唱え、動物と人間との境界を取り払いはじめた[11]。

現代
第二次世界大戦時代、人間(科学者、技術者、政治家、軍人ら)は、一瞬にして10万人以上の人々を殺戮するような原子爆弾を作り出してしまった(写真:「ファットマン」のキノコ雲)

今日の生物学は自然選択説も含めた生物の進化を基盤として成り立っているため、先進国の知識人や自然科学者など、現代生物学を受け入れている人々は、我々人間は猿からネズミのような姿をしていた祖先生物、さらに遡れば単細胞の微生物から進化してきたと見なしている。こうした観点を端的に表現した概念としては、社会生物学の「Wikipedia、利己的遺伝子」の概念などが挙げられる[12]。Wikipedia, The Selfish Gene

現在、人間の学名は「ホモ・サピエンス Homo sapiens」(知恵のあるヒトの意)で、やはり言語や文化などの(生物学的存在以上に多くの)側面を備えているとされている[13]。この学名と同時に作られた名に「ホモ・エレクトゥス(直立するヒト)」「ホモ・ハビリス(器用なヒト)」(以上は生物学用語)というのがあり、後に社会面から捉えられた「ホモ・○○○(~するヒト)」といった造語の元となった。遊びに目を留めたホイジンガの『ホモ・ルーデンス』、「ホモ・エコノミクス(経済人)」などはその典型である。

ただし、人類全体ではダーウィン風に考えている人は今でも必ずしも多数派というわけではなく、例えばアメリカ合衆国などでは伝統的なキリスト教の世界観および人間観を保ち続けている人の方がむしろ多数派であることなども知られている。

かつては、人間自ら最も進化した生物として「万物の霊長」と称していた時代があったが、裏返せば「地球上で最も恐ろしい生物」の称号の反映であった。大量殺戮兵器を使用した世界レベルの戦争は人間の知能の所産である科学技術が自らに牙を剥きうる事を如実に示し、人間は産業革命の時代から続いた大量消費によって自然破壊、環境問題などを引き起こした。今も、人間の存在の是非は問い続けられている。

教育と人間
『論語』の陽貨篇第十七には右のように書かれている。「子曰く、性、相近きなり。習い、相遠きなり」 (意味:師は言われた。人間は、生まれつきの性質は同じようなものであるが、習い(=教育、しつけ)によって、大きく異なってゆくものだ。)

ジャン=ジャック・ルソーは「植物は耕作によりつくられ、人間は教育によってつくられる」と述べた。

カントは『教育学講義』において「人間が人間となることができるのは、教育によってである」と述べた。

現代でも日常的に「人は教育によって人間になる」「人は教育によってのみ人間となる」「しつけと教育によって人間になる」「教育によってヒトが人間になる」 といったことが多くの人々によって言われ続けている。

性質



プラトンとアリストテレス(ラファエロの絵画)
人間の特徴として、社会を形成する傾向、文化を持っていること、言葉を使うことなどが挙げられる。

人間は文字や言語を抽象的なシンボル(象徴)として扱ったり、論理思考(論理学)を行い、多様な事象に様々な解釈を行う。多くの研究者の主観では知能は地球上の全ての生物の中で最も高度であると考えられている。

好奇心や知識欲は比較的旺盛で、その多くは少なからず自身の関心事に対して「知ること」と「考えること」を好む性質も見られる。一般的には、様々な意味で人間自身が最も人間の関心を引くようである。



人間は瞑想や内観も行う
人間には、知識だけでなく、自らの精神や心にも注意を向ける個体がいる。「心のありかた」や感じ方そのものを探求するだけでなく、それを自ら積極的に変革する努力を行うこともあり、例えば瞑想や内観などを行うこともある。宗教体系を持ち、それによって生活様式を整えている人間も多い(例えばアブラハムの宗教の信者だけでも30億人を超えている)。

道具を作り利用する能力が他の生物よりも長けていることも挙げられる。現在では機械装置といった高度化した道具を作り利用する事で、ほぼ他の生物が生存不可能な極限環境でも生活することができるまでになっている。ただし極限環境での生活は一般に負担が大きいため(コスト等)、大抵は着衣のみの調節で生活可能な地域に分布している。

歴史
詳細は「世界の歴史」を参照

現生人類は、アフリカで生まれ、その生息範囲を次第に広げ、中近東を経由してヨーロッパやアジア、さらに氷河期などの気候の変動も影響して南アメリカまで到達した。6000-5000年前にもなると、世界の様々な地域で農業が始まり、同時期に文明が発生した。そして、文明は範囲を広げ、現代ではヒトはそのほとんどが文明の下に暮らすようになっている(初期の文明としてはナイル川、ユーフラテス川、インダス川、黄河流域に発生したものが有名ではあるが、これらの地域のみで文明が発生したとする「世界四大文明」という概念はほぼ否定されている)。

生活



イヌイットの女性 1907年
その生息地域は極地を除くほぼ全ての地域である。特にアジアやアフリカに集中している。その中でもインドや中国の人口が特に多く、およそ3分の1を占める。

生活は民族間の差異が大きく、その中でも気候で暮らし方が違う。例えとしてみれば、日本では、沖縄などの亜熱帯気候では服が薄く、食べ物も暑さに負けないようなものが多いが、対して北海道では服を厚く着込み、食べ物は炭水化物などが多くなる。

そのため、各地域ごとにそれを探るのが適当であるが、最近はヨーロッパ、アメリカから派生した生活が主流となってきていて、違いが少なくなっている面もある。しかし、古い生活を大切にしようというスローライフ運動という運動も盛んとなり、また灯りによって夜間の活動が活発になるにつれ、生活習慣は個別化している。

人間の特徴と人間論



言語と関係する脳のエリア: ブローカ野、ウェルニッケ野など

人類を他の生物種から際立たせる特徴は幾つかある。最もよくかつ古くから指摘されるものは言語の発達使用と思考の能力である。知性を持つ生物は人間以外にもあるという指摘はあるが、言語の使用が人間が発達した社会を持つことを可能にした事は確かであろう。社会は大抵の場合人間相互の支配関係によって特徴付けられるため、古くから支配と権力の形態により社会を分類することが行われてきた。

言語はコミュニケーション能力として社会の基礎を与えるだけではない。人間は世界を把握・言語化しそれを操作して快適さを追求し、また、外界の変化を行っている。また、人間は自らについて考察を行う。人間は古来より人間自身の思考の対象としてきた。人間と人間自らの行為を考察の対象とする学問には、倫理学、歴史学、考古学、人文地理学、文化人類学、人間学、心理学などがある。

一般的ではないが、自我の発達が人格やアイデンティティの形成に繋がり、人間らしさを特徴付けるという考えもある。

人間と遊び
人間はその社会において、生存に必要な消費物を余剰生産する段階にまで入っている。この余剰生産分は、非生産的な活動に従事する人間に供される。これら非生産的な活動は、いわゆる遊びと呼ばれる活動であるが、人間は余暇を遊ぶことで、更なる生産性の維持を可能としている。

この余暇を生み出す生産性によって維持される遊びは、いわゆる文化と呼ばれる人間を人間たらしめている特長の原点であるともされ、また、多くの人間は趣味と呼ばれる非生産的な活動様式をもっており、自身の生活を購う労働とその生産物を消費する活動とは別に、この趣味を行うことを求めている。

動物では遊びを通して自身の能力を開発する様式を持っているが、これは成長の上で実利的な意味を持つのに対して、人間の遊びは実利的側面が無い場合も多い。人間の遊びや趣味は生物的に成熟した後でも続けられ、特に社会的な価値観(→常識)においては、趣味が有る人間の方が尊重される傾向すら見られる。

なお、人間は貨幣経済によりその生産力を貨幣単位に換算し、この単位を消費することで遊ぶことが出来る。

人間を活動面から特徴付けている要素として、この遊びに注目する学問も多い。詳しくは遊びの項を参照されたい。

人間の線引き


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2008年10月に貼り付けられました。

人同士の差別
近代以前の言語では、日本語の「人間」に相当する表現が、現在の「自由人」の意で用いられ、筆者自身はそのことを意識さえしていない、ということもあった。つまり、奴隷や農奴などの存在が自明当然のこととして扱われ、人間と言う時に彼らが除外されていたことがあるのである。一部の文献の解読に際しては注意しなければならないことである。

また、かつては各国において、他民族を排斥する時など、相手の民族を貶めるため、「彼らは人間ではない」「野生の動物である」などとする発想や表現が存在していた。今日では非常に忌避される発想ではあるが、このような考え方がありふれていた時代もある[14]。その後、人権思想も広まり、このような差別的な考え方、人種差別的な考え方は現在では世界的に嫌悪されることが多くなり、公に表明されることは少なくなった。現代では文字通り非人間という観念はなく表立って表れることはないが、ナショナリズムなどが絡む問題ではレトリックとして他民族・他人種を動物に擬する、或いは結びつける言葉が飛び出すことがあり注意を要する。個人攻撃も参照(もっとも第二次大戦後はナチズムの反省もあり大規模な傾向は減少している)。

日本での問題としては、被差別部落民を指し「非人」と称していた事があった。「人非人」という表現もあったが人であって人に非(あら)ず、と言うのは矛盾しているため人という言葉はここでは2つ、生物学的な人と(自分たちの)社会に入っていない人を使い分けていた事が窺える[15]。

様々な基準と概念的な戯れ
人間の基準のひとつとして社会性が挙げられることが多いが、他にも文化の継承という観点から人間を把握することもある。一般に「人間」という言葉は生物学的なヒト[16]以外を指すことはまず無い。これは文化を(部分的にではなく、包括的に)継承し得るのはヒト以外には無いためでもある。

知能を備えていれば人間とする考え方も古くからあったので、今日のようにコンピュータが普及し人工知能も徐々に実現してくると、どこまでが人間でどこまでが機械装置か、というテーマも浮上してきた。それに関する哲学的問答が存在している(→チューリング・テスト)し、そういったテーマを織り込んだSF作品(フィクション)も最近では少なくない。

また主としてサイエンス・フィクションなどのフィクション類をよく読む若者世代の一部などに、空想を逞しくし、いわゆる「宇宙人」なども絡めた上で人間の線引きを話題にする者もいる[17]。

関連語

人間関係についての詳細は「人間関係」を参照
人間はしばしば人物(じんぶつ)と呼ばれる。短く「人」と言うことで「人間」を意味することも多い[18]。また、特筆すべき著名な活動を行っている人間のことを著名人(ちょめいじん)或いは有名人(ゆうめいじん)と呼ぶ。人間と人間の関係を人間関係という。

人間の心身の本質についての、哲学的考察から近・現代の実証的な研究までを対象として「人間学」と呼ばれる学問分野がある。これはもともと、宇宙、世界の中での人間の位置づけ、人間の身体、気質、精神、魂などの在り方を研究するものである。

脚注

^ 出典:広辞苑
^ 18世紀フランスで発見されたアヴェロンの野生児を始め、人間の親に育てられなかった野生児(en:Feral child)が各地で見つかることがある。
^ 土井かおる『よくわかるキリスト教』p.29, PHP研究所, 2004, ISBN 456963494X
^ 土井かおる『よくわかるキリスト教』p.38
^ 土井かおる『よくわかるキリスト教』p.38
^ ビショフベルゲルによれば、近現代に見られるような、具体的な犯すべからざる個人としての人間といったものではない。(尾崎和彦『生と死・極限の医療倫理学』創言社, 2002, p.264)
^ 土井かおる『よくわかるキリスト教』p21
^ アウグスティヌス以前には原罪という思想は明確にはなかった、また東方正教会にもなかった、とされる。(土井かおる『よくわかるキリスト教』p.20)
^ 尾崎和彦『生と死・極限の医療倫理学』創言社, 2002, p.264
^ ただし、デカルトは心身二元論を採用しつつ、人間と動物をはっきりと区別した。尾崎和彦『生と死・極限の医療倫理学』創言社, 2002, p.264
^ 尾崎和彦『生と死・極限の医療倫理学』創言社, 2002, p.264
^ リチャード・ドーキンスの著『利己的な遺伝子』で広く知られるようになった)
^ 生物学的観点だけで人間のことを探求し記述したとしても人間のことを把握したことにはならないということである。ただし社会学などの、文化的側面が生物学的側面と独立している、あるいは対比的であるという前提についてはE.O.ウィルソン「知の統合」など批判がある
^ 勿論その時代にあっても多くの場合は相手も同じ人間である(理解し合うこともできるし、子供も作れる)ということを理屈の上では理解していたであろう。しかし感情的に同類と見なすことができなかったのである。
^ 養老孟司『死の壁』新潮社、2004年、90~94項
^ ヒト科ヒト属に属するヒト
^ もしも 地球外生命、異人類が存在し、もしも それが独自の文化や社会(いわゆる宇宙人、地球外文明)を形成していたとした場合には、「どの段階から人間として尊重すべきか?」「彼らがその形質上において地球上の生物とは異なる存在であろうとも、その何等かの特徴を持って人間として扱うべきではないか?」「ヒトという動物の中の一種族のみが人間と言えるのか?」「文化や知能が一定レベル以上であれば人間と見なしてもよいのではないか?」などということを大真面目に考えたり議論したりしている者たちもいるということである。SF作品(あくまでフィクション)では、我々の考える所の人道と同じ概念を共有出来る生命ならばそれは即ち人間である、などとして物語を展開することなどは多々見受けられる。
^ 俗に、「人」という漢字には、2つの存在が支えあっている様子が描かれている、ともいう。

関連項目
ウィキメディア・コモンズには、人間に関連するマルチメディアおよびカテゴリがあります。
視点
人間科学
人(法律)
ヒト(生物学)
人間工学
ありかた、ありさま
人間性
生活
歴史
世界の歴史
国の一覧
行動
人間関係
人間行動学
人間行動生態学
関係性
恩送り
写真
人物の画像一覧(ただし、ごく少数)
擬似人間
人造人間
ロボット

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